2022年10月15日土曜日

児嶋 顕一郎 ピアノリサイタル 報告

 

@Evelina Kislych Photograpy 

                                                                                                                    

9月17日、第5回仙台国際音楽コンクール、ピアノ部門で聴衆賞を受賞(セミファイナリスト)された児嶋顕一郎さんのリサイタルが千葉県柏市で開催され、聴いてきました。リサイタルの数日後オンラインで児嶋さんにインタビューさせていただきましたので、その内容も含めレポートします。

児嶋さんは1991年東京生まれ、5歳でピアノを始められました。茨城県立取手松陽高等学校音楽科卒業後すぐにドイツに留学され、ハンブルク国立音楽演劇大学学士課程及び同大学修士課程を最優秀の成績で修了。留学中から国際的なコンクールに挑戦・入賞され、2013年には第5回仙台国際音楽コンクール・ピアノ部門のセミファイナルにてヴェロさん指揮する仙台フィルと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番で聴衆賞を受賞されました。2015年、右手の局所性ジストニア発症により右手の機能を失いましたが、リハビリを継続しつつ左手のためのレパートリー開拓のための研究を始められました。その後、コンクールの挑戦を再開、他の出場者が両手で演奏する中、ただ一人左手での演奏を行い、優勝・入賞を得るという成果を上げ、左手による演奏活動を積極的に展開されました。その間、6年の大変なリハビリを経て、2021年には両手での活動を再開されています。また、近年は指揮も学ばれ、昨年10月グラーツ・ウィンドオーケストラの常任指揮者に就任するなど、活動の幅をますます広げられています(詳しいプロフィールは下記の公式HP等をごらんください)。


ユーチューブ https://www.youtube.com/channel/UCyIMEhjE1QXT-rGqNS3Absg   


ホームページ https://www.kenichiro-kojima.com  




フェイスブック https://www.facebook.com/KENI9163/?ref=settings  



インスタグラムhttps://www.instagram.com/kenichiro.kojima.pianist/  



ツイッター https://twitter.com/kenichirokojima  


 


 児嶋 顕一郎 ピアノリサイタル

~ドイツ音楽の真髄に迫る~

2022年9月17日(土)14:00開演
アミュゼ柏クリスタルホール

プログラム
 J.S.バッハ/シャコンヌ BWV1004 (ブラームス編)
 ブラームス/幻想曲集 op.116
 シューマン/交響的練習曲 op.13

 アンコール
  ブラームス/4つの小品 op.119より第1曲 インテルメッツォ

J.S.バッハ/ガヴォット BWV1006 (ヨゼフィー編)

この日のリサイタルは、左手の演奏によるバッハの「シャコンヌ」から始まりました。冒頭の単旋律が変奏を重ねて複雑になっていく過程で、左手だけでこれだけ多様な表現ができることに驚きました。限られた音数の中で曲に気持ちを乗せていく児嶋さんの演奏を聴いていくうち、左手か両手かを全く気にせず、ただ音楽に身を任せている自分に気がつきました。

「ドイツ音楽の神髄」と題されたプログラムの中心はブラームスの「幻想曲集 op.116」とシューマンの「交響的練習曲 op.13」でした。児嶋さんの演奏は、細部にあまりこだわらず小細工なしに、構成感を大切に大きな音楽を作っていくという印象を受けました。そんな自然な流れの中にも一つ一つのフレーズには気持ちがこめられており、心地よい感銘を受けました。作品の意図に真摯に向き合って、それを素直に音で表す児嶋さんのピアノ。シューマンの後半では、素晴らしいコンサートでよく感じる「この演奏が終わってほしくない」という気持ちを抱きながら、聴き入りました。

アンコールはブラームスの小品とバッハの「ガヴォット」。バッハは左手のみの軽快な演奏でリサイタルが締めくくられました。児嶋さんのライブ演奏を9年ぶりに聴かせていただきましたが、変わらない真摯な演奏スタイルに年月の深化が加わり、本当に聴き応えのあるリサイタルでした。

  

このリサイタルの3日後、9月20日にZOOMで行った児嶋さんへのインタビューを以下掲載いたします。児嶋さんのこれまでの軌跡やリハビリでの苦労、仙台への想いなどをお話いただきましたので、是非お読みください。


児嶋さんのプロフィールについて3点質問しました。


1. 取手松陽高校卒業後、すぐにドイツに留学されました。日本の音楽大学進学は考えなか ったのですか?


クラシック音楽を学ぶなら本場で勉強しなければという強い想いで国内の大学進学は一 切考えず、留学の1択でした。周りからの反対もありましたが、自分の意志は固かったです。


2. 右手の機能を失われた後、6年かけてそれを克服されたことは同じ病気に悩む人への希望になったと思います。6年間どんなリハビリを続けられたのか具体的な内容を教えていただけますか?

当時ドイツのハンブルクに住んでいました。2014年3月とあるコンクールに参加していた時、練習中に右手のオクターヴのパッセージが急にうまく弾けなくなりました。しかしその時はその場限りの現象でコンクール本番では上手く弾けました。練習のし過ぎかな?と思ったのですが、それから数ヶ月後、他のコンクール参加中にやはりオクターヴが弾けなくなりました。そこからは段階的に和音連打や音階が弾けなくなりました。その現象は慢性化して行き、2015年に入ってからいよいよこれはおかしいと気づいた時に自分で調べて見たらジストニアと言う病気をインターネットで見つけました。インターネット上で得た情報と見た写真(指が鍵盤上で巻き込んでいる)を見てほぼ確信しました、まさに自分の身体に起こっている事を目の当たりにしたのです。そこから医者探しを始めて、2人ほどハンブルクの神経内科を訪ねました。1人目の医者には原因不明と言われ、2人目の医者からはジストニアかも知れないけどそこでは診られないのでハノーヴァーの専門医を紹介されました。不幸中の幸いだったのが、ハンブルクから車で2時間ほど行ったハノーヴァーにジストニアの権威、エッカルド・アルテンミュラー先生がおられたことです。その先生のところに直ぐに行って、正式に局所性ジストニアであることが診断されました。そこからその先生の紹介でベルリンにおられるトレーナーの先生のところに直ぐに行ってリハビリを始めました。ロラン・ブレー先生(ホームページ: https://www.pianophysiology.com)と言ってご自身もピアニストでジストニアになられて、それをきっかけに身体の色々なことなどについて医学的、科学的アプローチから研究・試行された結果、ご自身のジストニアを克服するためのメソッドを完成されたのです。その先生とともにリハビリを始めたのですが、リハビリは何から始めるかということをお話しする前にジストニア自体の説明をしなければなりません。この病気は楽器に触れると現れる特徴を持っています。たとえば、手を鍵盤上で動かしたいとなったときに、多く勘違いされているのが、ジストニアの場合「動かなくなる」と言われることが多いです。でも「動かなくなる」のではなく、手の筋肉がこわばってしまう、動かしたいと思っても筋肉に余計な力が入ってしまって、そこから自分の意思でリリースできなくなってしまうというのがジストニアという病気です。これは脳の回路の問題で克服するためには、もう一度ゼロから神経回路を作り直すというとてつもない作業に入ります。ジストニアの人は最初、皆さんそうなのですが、ピアニストの場合、鍵盤を触った状態から腕の筋肉がグッと力が入った状態から抜けなくなってしまい、指が巻き込んだ状態になります。鍵盤を触ってもその状態が出ないように脳をオフにした状態でピアノという楽器を触るところからリハビリが始まりました。それから段階的に一つ一つ動作を増やしていきます。これがリハビリの大まかな内容です。日本に滞在する時は演奏家の脳と身体を研究されている古屋晋一先生(ホームページ: https://www.neuropiano.net/japanese)のラボにも行って、度々アドヴァイスを受けています。ちなみに歌手の方は声帯、管楽器の人は唇、弦楽器の人は大抵左手にジストニアの症状が出ると言われています。


3. 近年ピアノに加えて、指揮も学ばれて、指揮活動も始められております。そのきっかけや理由がありましたら、教えてください。

これもやはり「手」が原因で、ジストニアという病気になったときに、当時ハンブルクで師事していたステパン・シモニャンという先生が「これはピアニストにとって危機だ。でも、君は音楽を絶対に辞めはいけない!指揮を始めてみては?」ということで、指揮を勧めてくれました。ただ私の中では病気を克服してピアノをどうしても弾き続けたかったので、最初は指揮に全然興味が湧きませんでした。しかし、先生は会うたびに指揮を勧めるものですから私も根負けして、ちょっと覗いてみようかという気持ちで、同じ大学内で指揮をやっている他の学生の活動や学内のオペラのプロジェクトなどに顔を出しているうちに、自分もアクティブに参加するようになりました。最初は自分の意思に逆らって動いている様でかなり抵抗があったのですが、周りから勧めてくれる人がいて自分で参加していくうちにのめり込んでいきました。2019年からは学びの場をオーストリアのグラーツ国立音大に移して、そこでマルク・ピオレ先生の元で学んでいます。今となっては指揮を始めてみて本当に良かったという気持ちしかありません。今では「進むべくして進んだ道」と確信を持って言えます。ジストニアに出会ったおかげで人生において辛い時に迎えた転換期こそ、自分の行い次第で好転させることも出来ると言う教訓を得ました。病気になった時は辛かったですが、自分には必要な経験でした。「運良く」ジストニアになってその後の音楽家としての人生を更に発展させることが出来たと自負しております。

@Evelina Kislych Photograpy 

                                        

 9月17日のリサイタルについて質問しました。


4. 今回のリサイタルを企画されたきっかけをお聞かせください。

今回のリサイタルはアミュゼ柏さん主催です。柏市は僕の地元で、ここでのリサイタルは今回で3回目です。1回目は高校生の時の自主企画で人生初のリサイタルでした。その後、私がドイツに行って10数年経ってから柏市在住の取手松陽高校時代の恩師から、柏市民文化会館で柏出身の音楽家によるコンサートをやりたいので音楽家を募集しているという知らせを聞きました。そこから柏市民文化会館の館長さんが僕の演奏を聴いてくださり、アミュゼ柏での2回目のリサイタルに繋がりました。本来でしたら2020年の3月に開催する予定でしたが、新型コロナ感染症問題により延期に延期が重なり、2021年の5月にやっと行われて「展覧会の絵」などを演奏しました。その時に市立柏高校の吹奏楽部と今年の9月に「ラプソディー・イン・ブルー」をコンサートで演奏する予定を立て、それに合わせて今年のリサイタルを計画して頂きました。
 

5. リサイタルを無事終わられてのコメントをお願いします。

リサイタルは毎回大変ですが、今回は特に体力的にとてもハードなプログラムでした。シューマンの交響的練習曲は遺作も含めて今回全ての変奏を弾きましたが本当に大変でした。しかし、遺作の中の変ニ長調の変奏曲を弾くと天に昇ります(ビデオ: https://youtu.be/6_usDRMthN4)。やはり私自身ドイツに長く住み、今はオーストリア在住ですが、ドイツ物だけのリサイタルをやったことがなかったので、そこに挑戦してみたかった気持ちがありました。普段ドイツ語で話し考える生活をしていて、ドイツ・オーストリアの文化の中で培った感性や人間性が演奏に反映出来たら良いなと考えて、このプログラムを編んでみました。


6. リサイタルの最初の曲とアンコールの最後の曲は左手のみの曲でした。このことに何か意味を込められたのですか?

そこはあまり意識しなかったのですが、プログラムの構成上のバランス的にブラームスの「幻想曲集」とシューマンの「交響的練習曲」をプログラムに入れた時、最初に「シャコンヌ」を入れると良いのではと考えました。左手の曲ということはあまり考えませんでした。「シャコンヌ」もブラームスの「幻想曲集」も同じニ短調で書かれていて調性の親和性が有りますし、「シャコンヌ」のヴァリエーションの要素も変奏曲形式で書かれたシューマンの「交響的練習曲」との共通点があって、バッハから派生したロマン派への流れという点も意識しました。最初左手でバッハを弾いて、その後にブラームスとシューマンを弾いて、アンコールでまたブラームスに戻り、最後左手でもう一度バッハを弾くという、プログラム全体が一つのアーチの形になりました。リサイタルのプログラムは一つの物語の様に構成するのが好きです。アンコールは本編と関係ない物の時もあれば、今回の様に本編と密接に結び付いた曲を選ぶ時もあります。


7.ブラームスの「幻想曲集」作品116は仙台のコンクールの予選でも演奏された曲です。
何かこの曲集に特別な想いがおありですか?

これもハンブルクの先生とのエピソードなのですが、仙台のコンクールでは最初ブラームスの作品118(6つの小品)を弾きたかったのです。それを先生に告げたら、「まだ君には早い」と反対されて作品116を弾くように強く勧められました。どちらか決まらぬまま帰宅したら、先生からメールが7通届いていました。エミール・ギレリスが弾く作品116のYouTube、全7曲の演奏が添付されていて、それを聴くようにというメールだったのです。先生の圧に押されてそれを聴き、コンクールで弾くことになりました。しかし、勉強を始めてみたら素晴らしい作品で、コンクールでも聴衆の方やオンラインで聴いてくれていた音楽家仲間からも良い印象を持っていただいたようです。この作品の演奏に関しては、当時のほとんどの審査委員が良かったと言ってくださいました。仙台は私が挑戦した4つ目の国際コンクールでした。その前の3つはそれほど予備審査も厳しくなかったのですが、仙台は予備審査に通るのが本当に大変でした。現在のピアノ部門への応募は400人位と聞いていますが、当時は230~240人の応募者がいて、実際に本審査に呼ばれたのが40人弱だったと思います。仙台のコンクールに出場した時、今までのコンクールとは違う特別な思い入れがありました。まず自分の国のコンクールなのでどうしても出場したかったこと。そして、シモニャン先生に「*エリソ・ヴィルサラーゼが審査員にいる。彼女のような真の芸術家に一度演奏を聴いてもらえるまたとない良いチャンスだよ。」と言われたこと。頑張って予備審査用のビデオを録画しました。そうしたら運が良いことに呼んでいただけて、合格通知を貰った時は文字通り飛び跳ねて喜んだ思い出があります。それで仙台に行き、作品116を弾いて、セミファイナルに進むことができて、仙台フィルの皆様と最終的に共演(ベートーヴェンピアノ協奏曲第1番)できました。それまではコンクールに行っても一次予選で落ちてしまうことが多かったのですが、仙台ではセミファイナルに進み、聴衆賞を頂けたという、私にとっては「何かしらの始まり」のコンクールでした。その意味では自分の道を切り開くことができた、そのような時期に苦楽を共にした曲がこのブラームス作品116です。

*仙台のコンクールでヴィルサラーゼに認められて、その後イタリアのフィエーゾレ音楽学校のクラスに招かれて弟子になる。


仙台のコンクール(セミファイナリスト&聴衆賞)や仙台への想いについて聞きました。


8.9年前の仙台でのコンクールでの思い出やエピソードがありましたら、お話しください。


2年振りに家族に会えたことです。私は渡独後、コンクール出場のために仙台に行くまで2年間、日本に帰りませんでした。セミファイナルは家族全員が聴きに来てくれました。そして2年振りに家族集合というのが私の思い出です。


9.その時のホストファミリーとの繋がりはまだ続いていますか?

今も続いています!井上研一郎さん・由規子さんご夫婦にはコンクールの時も本当にお世話になりました。ご主人は偶然にも僕と同じファーストネームだったので盛り上がりました!私はセミファイナルまでで終了となりましたが、聴衆賞を頂けたので、表彰式までホテルに滞在し、ホストファミリー宅に宿泊する機会はありませんでした。しかし井上さんご夫妻とは、期間中に食事に連れて行って頂いたりコンクールが終わった後も、私が大阪でリサイタルをした時、わざわざ聴きに来てくださったり、メッセージのやり取りがあったり等、いまだに交流が続いています。本当に素晴らしい出会いです。


10.一緒に競われた出場者で印象的だった方や今も交流がある方はおられますか?

SNS等で繋がっていたり、中にはその後もヨーロッパや日本、アメリカなどにいる当時の出場者とご飯を食べに行ったりしました。


11.仙台の後もいろいろなコンクールに挑戦し続けられました。特に印象的なコンクールはどのコンクールでしたか?それはなぜですか?

仙台の後も研鑽して、大きなコンクールに挑戦しようと思っていたら右手を故障して、しばらくコンクールに応募しない時期がありました。その後、世界のコンクールを探すと、決まった課題曲がなく全ラウンドが自由な選曲のコンクールが結構あることを知りました。左手だけの演奏を始めた頃、それなら左手でコンクールに出場してみようと考え、スペインのヴィーゴという街で行われるコンクールに応募しました。出場者は一次予選の段階で100名位いましたが、最終的にファイナルの6名に残り、第3位をいただくことができました。審査委員もすごいメンバーで、パウル・バドゥラ=スコダ先生、シプリアン・カツァリス先生やタマーシュ・ヴァーシャーリー先生などの伝説的な方がいらっしゃいました。左手だけの演奏で認められたこともそうですが、ヴァーシャーリー先生が私に「あなたの演奏はすごく誠実だった。それが音楽に出ていて、我々に伝わった。本当に感動した。」と言ってくださいました。私が大切にしていることはやはり音楽に誠実に、嘘をつかない正直な演奏すること。パフォーマンスをするということではなくて、本当に音楽に誠実に向き合って、それを音にするという私が一番大切にしていることをヴァーシャーリー先生が認めてくれて、言葉にして私にフィードバックとして返してくださったことが本当に嬉しかったです。両手でなく、左手だけでも音楽はできるという一つの指針になったコンクールでした。その後、イタリアのリヴォルノ国際ピアノコンクールで優勝し、マンハッタン国際音楽コンクールではイヴォ・ポゴレリッチ先生から彼の名前を冠した賞を頂きました。


12.仙台のコンクールファンはいまでも児嶋さんのことを覚えていて、これからも応援したいと思っております。最後にこれからの抱負とともに仙台のファンの皆さんにメッセージをお願いします。

指揮活動を始めましたので、この1~2年でドイツ語圏の歌劇場で指揮者としてのポストを得て、指揮者としての活動を本格化させることが目下の目標です。ただ、ピアノは私にとって音楽の故郷ですから、それを離れることは絶対ありません。可能な限りピアノの演奏も続けていきたいです。ピアノの面では、両手演奏だけにとらわれず、左手の演奏も続けていきたいし、両手の演奏ももっと充実化させていきたい。また、協奏曲や室内楽など、やりたい音楽が沢山あるので、それらも頑張っていきたいと思います。そして仙台で再び演奏できる日が来ることを夢に見ています!(オファーいつでもお待ちしております 笑)というのも仙台のコンクールの時にある聴衆の方からいただいた手紙(※)は私にとってとても印象的なものだったからで、それを時々読み返してみるとその度に胸に響きます。私もこの10年で沢山のことを経験しました。それを経てこの手紙を改めて読んでみると、この方もその当時は本当に大変だったのだろうなと心の底から共感します。手紙には「数年後の私は今よりも笑顔が多い、幸せな気持ちでいられたら、あなたの録音を懐かしく聴くことができるかな。」と書かれていて、もし今そう聴いていただけていたら音楽家冥利に尽きます。


(※) 2019年2月に仙台国際音楽コンクール事務局に寄せられた児嶋さんのメッセージをコンクール公式Facebookに掲載した記事です。児嶋さんのメッセージの文中に今回のインタビューでお話しされた手紙のことが記されています。

「左手の為のプログラムでイタリアの国際コンクールに優勝!」

第5回仙台国際音楽コンクール(2013年)ピアノ部門セミファイナリストで聴衆賞を受賞された児嶋顕一郎さんが、2019年1月21日~26日にイタリア・トスカーナ州で開催されたリヴォルノ国際コンクールで優勝及び二つの特別賞を受賞されました!

今回の優勝に関して児嶋さんから事務局にご報告があり、仙台のファンの方々に対してメッセージをいただきました。

2013年6月、僕が初めてコンクールのために仙台を訪れた時、街は復興目覚ましい中、まだ震災の爪痕が残っている状況でした。コンクールの会場だった仙台市青年文化センター(現・日立システムズホール仙台)も、コンクールが始まる直前に修繕工事が終わった所でした。それでも、仙台の人たちは家族の様に暖かく親身になって僕たちコンテスタントをサポートしてくれました。コンクール期間中はステージが終わるごとに聴衆の方々からお手紙をもらいました。全ての手紙は今でも手元に大切に保管しているのですが、その中の一枚が僕の音楽家人生に大きな影響を与える印象深いものでした。その方は手紙にこう綴られていました。

「自分の力ではどうすることも出来ない辛い日々を過ごしていましたが、児嶋さんの演奏を聴いて涙し、大きな勇気と元気を頂きました。前だけを見て生きていく力が湧いてきました。一生忘れられない演奏となると思います。」

病気によって僕の右手が動かなくなりどうしようもなくなった時、この言葉が常に頭の中に響きました。また演奏が出来るように!その一心で危機を乗り越えることが出来ました。コンクールは競争の場です。しかし当時コンクールで出会った同じコンテスタントやホストファミリーとは今でも交流があり、僕にとってこのような出逢いこそが何よりもの宝です。また、仙台の地で演奏できる日を楽しみに、そしてそれを励みに今後も精進して参りたいです。




われわれボランティアの間で今でも話題に上る児嶋さん、是非また仙台で演奏を聴かせてほしいと願っています!


広報宣伝サポートボランティア   岡

0 件のコメント:

コメントを投稿